GOLDEN NIGHT の話

久しぶりに更新。

 

昨日(2020/11/14)、私が密かにずっと読んでいた推しブロガーさんが更新されていた記事*1を見て、

あ、そうか!なるほど!

と思ったことがあったので、歌詞解釈をやってみたくなり

更新した次第でございます。

 

 

 

私が「なるほど!」と思ったのはここです。

 

あと、もうひとつ気付いたこととしては、「愛」はあっても「恋」や「好き」は歌詞に入っていないということですね。

 

確かにGNには、このようなワードがありません。

ここで私が思い出したのは、キリスト教においての「愛」です。*2

 

キリスト教の「愛」には、【ストルゲー】【フィリア】【アガペー】【エロス】の4種類があります。

ストルゲーは家族愛、フィリアは隣人愛(友愛)、アガペーキリスト教における真の愛であり、「無限の愛」「自己犠牲的な愛」です。

 

そしてエロス。これは、「性愛」や「自己を満たす愛」です。

元々は(というと少しおかしいですが)、恋心と性愛を司る神の名前であり、

その名前は、端的にいうと「受苦としての愛」に由来しています。

 

 

この神「エロス」には二つの物語があるんです。

長いので、Wikipediaから引用します。

古代においては、若い男性の姿で描かれていたが、西欧文化では、近世以降、背中に翼のある愛らしい少年の姿で描かれることが多く、手には弓と矢を持つ(この姿の絵は、本来のエロースではなく、アモールあるいはクピードーと混同された絵である)。黄金で出来た矢に射られた者は激しい愛情にとりつかれ、鉛で出来た矢に射られた者は恋を嫌悪するようになる。

エロースはこの矢で人や神々を撃って遊んでいた。ある時、アポローンにそれを嘲られ、復讐としてアポローンを金の矢で、たまたまアポローンの前に居たダプネーを鉛の矢で撃った。

 

以降、アポローンの解説記事より

偶然出会ったエロースと彼の持つ小さな弓を馬鹿にしたことから、エロースはアポローンへの仕返しに、黄金の矢(愛情を芽生えさせる矢)でアポローンを撃ち、鉛の矢(愛情を拒絶させる矢)でダプネーを射た。このため、アポローンはダプネーに愛情を抱いたが、ダプネーはアポローンの愛を拒絶した。

エロースの悪戯によってアポローンは彼女を奪おうと追いかけ続け、ダプネーも必死に逃げ続けた。しかし、ダプネーの体力が限界に近づき、ついにはペーネイオス河畔に追いつめられたため、ダプネーは父ペーネイオスに祈って助けを求めた。追いつめたアポローンがダプネーの腕に触れかけたとき、娘の苦痛を聞き入れたペーネイオスにより、ダプネーは月桂樹に身を変じた。

失意のアポローンは「せめて私の聖樹になって欲しい」と頼むと、ダプネーは枝を揺らしてうなずき、月桂樹の葉アポローンの頭に落とした。この故事により、デルポイのピューティア大祭で行われる競技の優勝者には、月桂冠が与えられることになった

 

 

しかもこの話には、別の地方で伝承されてきたバージョンがあります。

 

アルカディア地方やエーリス地方の伝承によると、ピーサ王オイノマオスの息子レウキッポスがダプネーに恋をした。しかしダプネーは男を避けていたので、女装して、自分をオイノマオスの娘だと偽って近づいた。ダプネーは他の女よりも身分が高く、狩りの腕にも秀でていたのですぐにレウキッポスのことを気に入った。しかしアポローン神は腹を立て、ダプネーや他の女たちにラードーン河で泳ぎたいという強い思いを抱かせた。しかしレウキッポスが泳ぎたがらないので、女たちはレウキッポスの衣服をはぎ取り、男であることに気づくと剣で殺した。

なお、セレウコス1世はアンティオキア近郊のダプネ―の地にアポローンの神殿を造営したが、そこにはダプネ―が変身したとされる月桂樹があったという。

 

 

アポローンの神殿には月桂樹があった、ということは、

もうダプネーは永遠にアポローンと離れられないわけです。運命的に。

 

さらのアポローンは、ダプネーを苦しめ(ているように見え)るレウキッポスを殺します。

自らの手は汚していません。レウキッポスを女達が恨むように仕向けた上で、女たち自身に殺させています。

 

 

最後まで拒否し続け逃げ続けたダプネーがアポローンの聖樹になることは、一瞬譲歩にも見えますが

結局、ダプネーはアポローンに「just only you」してしまう。

 

すると、「keeping love again」は「恋を嫌悪する『君』に、愛(エロス)を再び持って欲しい」というふうにも解釈できます。

 

 

ここで注意しておきたいのは、

ダプネーがエロスによって忌諱するようになったのはあくまで「恋」に過ぎない、ということです。

つまり、エロス以外の「愛」はこれまでと変わらず存在しています。

 

最終的にダプネーがアポローンの聖樹になった時、彼女がアポローンに向けた愛は、エロスではなくフィリアだとも言えます。

 

アポローンはエロスを持ってしてダプネーを「愛」したわけですが、ダプネーがアポローンに向けた「愛」は友愛にすぎません。

 

もちろん、友愛や隣人愛は素晴らしいものですが、

彼らの場合、もう決定的にすれ違ってしまっている。

 

GNでは冒頭に、たった一度だけ「電光石火の『恋』」というワードが出てきますが、つまり“僕”の「愛」はエロスであるということになります。

 

"君"が"僕"に対して「愛」の感情があったとして、それはエロスではないのでしょう。

 

 

 

というわけで私は、『Why don't you think?―』をこんな風に訳してみました

 

 

どうして僕を想わないの?

僕は君の為に、奴を殺してひれ伏したのに。
美しい夜伽をしよう
僕が君を欲するか、そんなことわからなくてもいい。
僕を想うはずの君だけが、僕を極致へと導けるのだから。

 

 恐らくこの「夜伽」も「極致」に関しても、"僕"と"君" で同じ認識になるということは起こり得ないのでしょう。

 


GNが報われない恋なのは、「噛み合うことのない愛のすれ違い」なのではないかな、と感じます。

 

因みに、エロスのもう一つの物語はこちらです

 

 ヘレニズム時代になると、甘美な物語が語られるようになる。それが『愛と心の物語』である。地上の人間界で、王の末娘プシューケーが絶世の美女として噂になっていた。母アプロディーテーは美の女神としての誇りからこれを嫉妬し憎み、この娘が子孫を残さぬよう鉛の矢で撃つようにエロースに命じた。

だがエロースはプシューケーの寝顔の美しさに惑って撃ち損ない、ついには誤って金の矢で自身の足を傷つけてしまう。その時眼前に居たプシューケーに恋をしてしまうが、エロースは恥じて身を隠し、だが恋心は抑えられず、魔神に化けてプシューケーの両親の前に現れ、彼女を生贄として捧げるよう命じた。

晴れてプシューケーと同居したエロースだが、神であることを知られては禁忌に触れるため、暗闇でしかプシューケーに会おうとしなかった。姉たちに唆されたプシューケーが灯りをエロースに当てると、エロースは逃げ去ってしまった。

エロースの端正な顔と美しい姿を見てプシューケーも恋に陥り、人間でありながら姑アプロディーテーの出す難題を解くため冥界に行ったりなどして、ついにエロースと再会する。この話は、アプレイウスが『黄金の驢馬』のなかに記した挿入譚で、「愛と心」の関係を象徴的に神話にしたものである。プシューケーとはギリシア語で、「心・魂」の意味である。

プシューケーとの間にはウォルプタース(ラテン語で「喜び」、「悦楽」の意。古典ギリシア語ではヘードネー)と言う名の女神が生まれた。

 

 

 GNやアポローン達の物語が「噛み合い得ない『愛』」の話ならば、

こちらは「噛み合わせることができた『愛』の向き」の物語、といったところでしょうか。

 

 

 

 

 

当記事で引用させて頂いたおくらさんのブログはこちらです

 

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

*1:

golden-night.hatenablog.com

*2:念のため書いておくと、キリスト教(カトリック)の知識は多少ありますし、聖書も読んだことはありますが、決して敬虔な信者というわけではありません。というかクリスチャンでもないです。ですので、多少の違いがあるかもしれないこと、ここに記しておきます。誤り等ありましたら、是非教えてください。